11/12 シンガポールのうどん
昨日、一昨日と、10ヵ月ぶりにシンガポールへ行ってきました。用件はインドネシア国のソシアル・ブダヤ・ビザ取得のため。 今回は同行者なく一人旅。デンパサール空港発14:55→シンガポールのチャンギ空港17:25着(時差はなし)機内ではUSAインディアナ・ユニバーシティーのプロフェッサーというインド系夫婦と隣り合わせて話が弾み(私の英語力では、そんなことはないか)とにかくホリデイでシドニー→バリ→タイ→ベトナム→香港を1ヵ月余りで巡るということ。 よい旅を祈って分かれました。あいにくの雨で外歩きができずホテル内で夕食。シンガポールのビザ・コンサルとロビーでドッキングしウブドで作った書類一式とパスポートと代行料金はS$170を渡しました。このホテルは、オーチャード通り東部と湾岸エリアの中間にあり、比較的新しいのと清潔、シンプル、低料金なので2回目の利用です。YWCAが経営しており名前は「フォート・キャニング・ロッジ」。
ここで失敗二つ。エレベーターの行く先階ボタンが作動せず、上がったり下がったりウロウロ。文句を言おうと降りかけて、よく見るとボタンの上にルームキーを差し込む口があるではないですか。何のことはない、ホテルの用心堅固だった訳です。もう一つ、1泊だけなのでブリーフと靴下だけ持っていったのですが、寝衣はなし、裸でベッドにもぐりこむ羽目になりました。
翌日、時間があるのでオーチャード通りをジャランジャラン。ISETAN前の歩道のベンチでしばらく人間ウオッチングをしました。シンガポーリアンは、とにかく歩くのが早いですね。アメリカ人はどこでも一目で分かる半パンツ姿。とろりんと歩いているのは日本人観光客。前回も街のお兄さんに日本語で話しかけられ「なんで分かる?」と聞くと「歩き方」という答えでした。
高島屋の地下のフードコートで「うどん房・さぬきうどん」の看板を見つけ、昼食をこれに決めたのが大失敗。麺は団子状、だし汁はぬるくて薄味を通り越していました。私の「手抜きうどん」を教授しようかと思ったくらいでした。高島屋もISETANも、日本色が薄れているように感じたのですが・・・
午後3時、ホテルのロビーへ戻り、エージェントからビザのスタンプを押したパスポートを受け取り、18:25チャンギ発、21:00デンパサール着の飛行機で帰ってきました。暑いシンガポールから涼しいウブドに戻って、やれやれです。
11/18 バリは本格的な雨
バリは、いよいよ本格的な雨季モードです。昨日あたりから本格的な降りとなり、夜には稲光と雷鳴がとどろいていました。 夜中にも降り、今朝は5時半ごろから1時間余り、〝車軸を流すよう〟〝バケツをひっくり返したよう〟な降りが続きました。6時になると、朝日が顔をのぞかせ、青空も見えました。時には、こんな日、西の空に半円のきれいな虹がかかることがあります。バリは毎年、10月ごろから翌年の3月ごろまでが雨季といわれますが、一番降るのは12月-2月ごろ。今年は10月中旬に雨が続き、雨が多いねと言っていたのですが、1週間くらいで、からりと晴れ上がり連日の好天が2,3日前まで続き、今度は雨季はどこへ行ってしまったのかなと思ってました。
雨が降ると、1年中咲いている花々も、どこか生気を取り戻したように見えます。ドリアンはじめ果物もたわわに実り、豊かなときを迎えたような気分になります。観光に訪れる人は、やっぱり雨のシーズンを敬遠するようですが、逆に雨の方がいいと、わざわざ雨季を選ぶ人もいます。
台風は?とよく聞かれるのですが、ここには台風はやってきません。気象条件がどうなっているのか、詳しい人に教えてほしいのですが、余り強い風は吹きません。海岸べりはサーフィンに適した高い波が打ち寄せていますが、ウブドあたりまでくると風が弱まるのですかね。
うちのクロは天気のよい日、午前6時になると、決まって、ベッドの足元に伏せをして大きな声で「ワンッ」と、散歩の催促をします。ところが雨が降ると、静かにテラスで寝ています。散歩に誘っても知らぬ顔をしています。
無理やり引っ張ると、足が濡れるのがいやそうに、そーろりそーろり、おずおずと歩き始めますが、すぐにやめてしまいます。けったいな娘です。
11/20 独立戦争の戦没者
きょう、バリ島西部、タバナンの少し西にあるマルガ村のマルガラナで行われた独立戦争戦没者慰霊祭に行ってきました。 インドネシアでは、第2次大戦が終わり日本軍が引き揚げた後、かつて植民地として支配していたオランダが再び植民地化をねらい、独立を宣言したスカルノ、ハッタ氏らと戦っていました。バリ島でも各地で島民が蜂起していましたが、1946年11月20日、この地で悲劇が起こりました。ングラ・ライ将軍率いる96人の戦士が、この地で圧倒的な兵力を誇るオランダ軍に包囲され、ちょうど40年前、島内各地で王族がオランダ軍に挑み、ププタンと呼ばれる死の行進をした場面が再現され、全員が戦死したのです。しかし、この時の抵抗が後にオランダ軍の手を引かせる要因となりました。
この時、降伏を呼びかけるオランダ軍にングラ・ライ将軍が送った手紙の最後は「Merdeka atau mati!(自由か死か)」で結ばれていました。
この戦死者の中に日本軍の生き残りの人たち20人が含まれていたのです。祖国への引き揚げを拒み、独立軍に身を投じた人たちです。
式典にはバリ州の知事を始め要人が顔をそろえ、日本からやってきた「日本バリ会」の年配のお二人の顔も見られました。二人は、終戦当時、バリ島に在勤していて日本へ引き揚げ、その後、何度となく、バリを訪れているそうです。
式典のメイン広場では、少年少女が独立軍兵士やオランダ軍兵士に扮し、爆竹が鳴る中、当時の戦闘で全員が倒れる場面を再現、感動的なシーンを見せてくれました。
この地には、記念碑や資料館のほか、1300余りの石の追悼碑が建てられており、知事や遺族の人たちが碑に花を捧げていました。日本人の戦死者の碑も11基が確認されています。
8人は名前も分からず碑はなし。1人は日本人とあるだけで、ひっそりと眠っています。戦後60年の集いなどが今年、日本各地で行われましたが、ここにも戦争の記憶が残っていることを改めて感じました。
ちなみにデンパサール空港(正式名称はングラ・ライ空港)を出て、真っ直ぐな道を突き当たった所に建っている像は、ングラ・ライ将軍です。