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2005年3月「ウブド村暮らし通信」

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03/06 いよいよ盆と正月の週

 バリの雨季は、そろそろ終わりに近づきましたが、最後のがんばりか、ウブドでは、このところ毎日、午後になると激しい雨と雷鳴がとどろいています。雨があがると、あちこちから「ドーン」という、ししおどしのような音が聞こえてきます。いよいよ盆と正月が一緒にやって来る知らせです。
 西洋暦の3月中、下旬に毎年、行われるニュピ(今年は11日)は、うっとうしかった雨季が明け、明るい陽光がやってくるのを迎える新年の儀式です。その日に備えて、まず悪魔払いや清めを行います。その一つが、邪悪を追い出す、ししおどしのような大きな音で、竹筒にカーバイドなどを詰めて発火させます。昔は各家で競争のように大音声を響かせていたようですが、あまりにもうるさいのと爆弾騒ぎなどもあり一時、自粛していたのが、最近は少し復活した模様です。
 清めは、住民のほとんどが正装して海へ行きます。バリ島では日ごろ、山の方を「カジャ」と呼び、正、清などの方角、海のほうを「クロッド」と呼び邪、濁などの方向と定め、寺、屋敷の配置なども、この方位で決められています。従って海はあまり歓迎されないところなんですが、祭りや葬儀の清めは海で行います。対立する2極が、いつも相反しているのでなく、融合し合い、いずれも有益となるという宇宙観、世界観に基づいているのでしょう。
 全島が、村ごとに海岸へ出かけるわけですが、清めの場所が限られているため、村別の日程が決まっています。例年はニュピの日の3日前ぐらいに出かけるのですが、今年はちょうどガルンガン(9日)にあたるため、早めに清めが始まっており、近隣の村では既に済ませたところもあります。私たちのいるブントゥユン村は隣のサクティ村やウブド村の人たちと一緒に明日、7日の朝から出発します。海岸から離れている村では歩いても行けないので(昔はみんな歩いていた)大型トラックやバスに鈴なりに分乗して出かけます。
 清めの後も、ニュピ当日まで、さまざまな儀式が行われます。いよいよ盆と正月が一度に・・・という週に入りました。これから、どんなことが起こるか、ウブド村暮らし通信をお楽しみに。

03/07 ざわめくバリ

 バリ島中が、ざわめいてきました。9日のガルンガン、11日のニュピ、そして19日のクニンガンを控え、多くの人たちが街頭に出て忙しく立ち働きながら、交わす言葉もなんとなく浮き立っています。子どもたちも今日から2週間の臨時休みで大はしゃぎです。
 道路際で目立つのはガルンガンのためのペンジョールづくり。長い竹竿をしならせて竜の背骨に見立て椰子の葉などで飾りつけ、アグン山の方向から、ご先祖が無事、お帰りになるよう門ごとに立てる準備を進めています。町や村の辻々では臨時の市場が開かれ、お供えや食料品の商いで大にぎわい。スーパーも食料品を買い込む主婦で混雑していました。この期間、観光客相手のカフェや土産物店など一部を除いて閉店する所が多く、主婦たちは、自宅で作るご馳走の準備に追われているのです。そういえば、朝から「キーッ、クーッ」という豚の鳴き声があちこちから聞こえます。最も重要なご馳走、ラワールなどに供されるため島中で多くが犠牲になります。この時期、豚1頭は、やや値上がりして60万-100万ルピアだそうです。
 私たちは今朝、ギアニャール県のプルナマ海岸へ、ニュピのための清めに行きました。ブントゥユン村、近隣のサンバハ、ウブドカジャ、ウブドクロッド村などが、この日、この海岸を割り当てられ、一斉に出かけました。1村につき大型トラックが10台くらい、それに乗用車、バイクを加え村から海岸まで約30分の道のりを大行進です。それぞれのトラックには、村のお寺に祭られているバロン、バロンダンドゥン(巨大な人形)そして、子どもみこしくらいの大きさの、飾り立てた社を積み、隙間に正装した大人、子どもがぎっしり詰め込まれて走ります。
 海岸に着くと幟、社の日覆いの傘とガムラン隊を先頭に仮設の小屋まで行進し、この前で海に向かって新しい年を迎えられるよう祈ります。
 ところが、この日は朝から全島が雨。土砂降りの中の行進と待機で、上から下までずぶ濡れになりながらバリの人たちは辛抱強く待ちます。そして小降りの間にお祈りを済ませ帰途に着いたのが、またウブドで大雨と、今年はツイていないムキエス(海岸の儀式)だったようです。

03/09 今日はガルンガン

 今日はガルンガン。年に一度(210日の暦で)、神様になったご先祖を、村のお寺や屋敷地の中の祠にお迎えする、バリ・ヒンズーの重要な儀式の日。全島に竹飾りのペンジョール並木が出来た中、男性は白の上着にサロン、頭にウダンを冠り、女性は色とりどりの上着のクバヤ、サロンに帯をきりりと締めて、頭にお供えの篭を載せ、朝から三々五々、村のお寺に向かいます。子どもたちも同じように正装、赤ちゃんは一張羅の服を着せてもらい、お供をします。
 私たちはブントゥユン村の村役ストウさん、奥さん、娘さん3人と一緒に午前8時半に出かけました。9時から、お祈りという知らせが村の通達で回っていたのですが、「まあ11時ね」と、だれかが言った通り、やっぱりバリ時間。続々と集まってきたブントゥユン村、サクティ村の人たちは、もう慣れっこで、そこここに固まっておしゃべりに花を咲かせます。アイスクリーム売り、駄菓子の屋台も出て、子どもたちは退屈しません。いつものようにバリ犬も数頭、人込みに混じって、にぎやかしをしています。外国人はブントゥユン村の人と結婚し、ここに住んでいる陶芸家スーザンさんと友人、それに鈴木さん、私たちをいれて4,5人を見かけました。
 やがて11時、マイクの呼びかけで、今日は外庭に全員が座り、プマンク(寺僧)の経文と鈴の音に合わせてお祈りです。各人が目の前に立てた線香から香、煙を頭、顔にかけ、両手を合わせ掲げた指先に花をつまんで「チリリーン」と鈴の音を合図に懸命に祈りました。私は、このところ日本のお盆に不在で十分な墓参りも出来ていないので、遠くバリからご先祖様に祈りました。ヒンズーも仏教も同根ですから違和感はありません。
 帰途、ストウさんの家でラワールと奥さん手作りのケーキをご馳走になりました。バリ料理ラワールについては【ウブド村暮らし通信】(04.08.10)を参照して下さい。ビラ・ビンタンでも、きれいに飾りつけた祠の前でスワティさん、パトリックさんと一緒に祈り、静かなガルンガンの一日が過ぎてゆきました。

03/10 バリの大晦日

 バリの大晦日の10日、各地で、さまざまな儀式が行われ、通りは大にぎわいでした。ニュピ(新年)を明日に控えた今日は、雨季でじめっとした大地や自然から疫病や災害の源になる悪霊にお引取り願い、明日から陽光が降り注ぐ恵みの自然になるよう祈願する日です。
 午前中、ウブドの中心、王宮の前の道路を封鎖して「タウル・アグン」という悪霊払いの儀式があり参加してきました。去年夏に盛大な葬儀が行われた際、巨大なバデなどが飾られていた場所です。
 ウブド市の各村のうち今年の当番、パダンテガール村の人たちが作った供物が道路いっぱいに広げられ、一段高い式台にプダンダ(高位の僧)2人が正装して上がりマントラ(経文)を唱え始めると儀式の開始。近隣の数百人の人たちが、道路上や王宮向かいの集会所で供物を捧げて巡回したり、生贄の闘鶏、ガムランに合わせての仮面舞踊、スクリーンのない影芝居など同時進行で繰り広げます。クライマックスは全員が地べたや集会所に座り込み、一斉にマントラを唱えプマンク(寺僧)から聖水を受けることです。このあと隣の共有寺から、お供えやバロン、祠など自分の村へ持ち帰る行列があり、めいめいの寺で同じような儀式を繰り返します。
 こうした儀式が行われる時、いつも思うのですが、ヨーロッパからウブドを訪れている人たちが大勢、式の一部始終を見届けカメラにおさめ、中には一緒に礼拝する人がいるのに、日本人がほとんど居ないのは、なぜなのかと。旅をする楽しみ、地域の文化への関心、興味は人それぞれなのでしょうが、何か考えてしまう事象です。
 夕方はビラ・ビンタンの敷地内でスタッフと悪霊払いをしました。枯れ枝に火をつけ地面に打ち付けながら、ニョマンさんが口に含んだ辛い唐辛子を吹き付け、スワティさんは大声で叫びながら椰子の葉をバタンと地面に打ち付けます。私たちは手に手に竹の楽器や鍋のふたなどを持ち、がんがん打ち鳴らしながら大声で唱和し、敷地内を一巡。日本のどこかでも同じような風習がありましたね。
 夜は「オゴオゴ」という巨大な張りぼての悪魔の人形を担いで村中を回る儀式をパダンテガールへ見に行きました。ちょうど青森などの「ねぶた」を小型にしたようなものです。ピンクの子ども用のゴジラがご愛嬌でした。かつては多くの村がオゴオゴをつくりコンクールまで催されていたようですが、最近は爆弾事件や選挙などで、勇壮なオゴオゴ練りは敬遠されている様子。一説には寄付をしなかった外国人の車や評判のよくない役人の門に、わざとぶつける暴走で禁止されたということもある、そうです。これも似てますね。

03/12 1927年の年明け

 1927年、新年おめでとう。これ、間違いではないのです。バリ島のサカ暦では今年は1927年、その年明けの日、11日は「ニュピ」でした。「静寂の日」とも呼ばれます。バリ・ヒンズーの人たちは、夜明け方から、静かに一日、家に篭って、家族と談笑したり、来し方を振り返り、行く末を思う日なのです。外出はいっさいダメ。通りへ出ることさえ許されません。旅行者といえど、この決まりは守らなければなりません。夜になると灯火は必要最小限にとどめランプに覆いをして過ごします。
 この日の夜明け、テラスに出ると、本当に静かでした。いつもは下のウブドの街中から湧き上がってくる低い騒音や表の通りを走り抜けるバイクの音がピタリと止み、鶏や野鳥の鳴き声も遠慮がちに聞こえました。そのまま何の変化もなく、周辺のホテルやビラも含めて人影もなく物音一つせず、一日が、ゆっくりと過ぎてゆきました。村のみんなは、どうして過ごしているのだろう、ちょっとのぞいてみたかったのですが、一歩も通りへ踏み出せないのですから、仕方がありません。
 かつて、隣のビラの宿泊客が間違って散歩に出かけたところ、10メートルも歩かないうちに村役の「見張り番」に連れ戻されたそうです。後で聞いた話では、昨日、ブントゥユン村のストウさんの末娘が風邪で熱を出しウブドのクリニックへ連れて行くのに村役が付き添っていったそうで、こういう特例は許されているようです。
 だれも外出しないので当然、役所、学校、レストラン、お店・・・みーんなお休み。日ごろは車、バイク、人で騒然としている大通りに人っ子一人居ない、こんな風景が想像できますか。大昔、私が子どものころ、日本でも正月元日に国道2号線で寝っ転がって遊んだ記憶がありますけど・・・・
 ボンさんいわく。「世界中で、みーんないっせいに、こんな日を作ったらいいのにね」。飛行機を止め、車を止め、一日、静かにものを考える日。バリだけが特別でない日が来ればいいのですが。
 夜、真っ暗闇の中、前の水田ではホタルの群舞が見られました。かつてウブド一帯が停電の夜、同じ光景を見たのに、だれも信じてくれなかったのですが、今回は他の証言あり、です。

03/19 大きな葬儀二つ

 昨日、ウブドで大きなお葬式が二つありました。一人は王宮のすぐ北隣のウブドカジャ村の一角に住む王家につながる年老いた女性、もう一人は隣のサンバハ村のプマンク(寺僧)。いずれも庶民と比べて死亡後、日をおかずの葬儀のようです。
 王家の縁者の方は去年8月、今世紀最後といわれたウブドの王家の葬儀ほどではなかったですが、9層、高さ20m余りののバデ(棺を納めて担いで行く輿のようなもの)、大きな黒のランブー(牛の飾り物)が王宮前の道路に飾られ、寺僧の方は椅子のような台座のバデ、真っ白のランブーが道路際に飾られていました。
 王宮前の道路際や前の集会所、市場の前などは見物の観光客で早くからびっしり。バデを担ぐ行進が始まるのはキラ・キラ(おおよそ)正午ごろという情報で、1時前には現場に居ました。ところが、やっぱりバリ時間。待つこと3時間強。この間、近くのカフェでお茶を飲み、市場で買い物をしても、まだ時間はたっぷりでしたが、ヨーロッパから来ている人たちは、バデを担ぐ村の人たちと辛抱強く待っていました。
 午後4時過ぎ、それぞれ50人余りの男たちに担がれたサンバハ村のバデとランブーがガムランに合わせ勢いよく掛け声とともに十字路で3回回った後、西方のプラ・ダラムへ向けて通り過ぎて行きました。さて王家の出発、ランブーが出て、バデも勢いよく十字路を3回回って、こちらは東の寺へ、と思ったところが、ここで大ハプニング。塔が電線にひっかかって棺を納めた中間の所からボッキリ二つに折れてしまったのです。去年は、この道路の電線は全て切り払いウブド中が停電したのですが、今回は電線を持ち上げる竿を持った人が一緒に歩いていたのに気づくのが遅れしくじってしまったようです。
 そのまま寺へ着き台座にランブーを移し背中に遺体を納めて、火がつけられました。大勢が見守る中、全てが燃え尽くすまで約1時間。合掌して帰路に着きました。
 今日はクニンガン。ご先祖が天界へお帰りになる日で、正装して村のお寺や屋敷地のお寺にお供えをし、お祈りをして過ごしました。
 ガルンガン、ニュピ、クニンガン、それに葬儀、サンバハ村では結婚式も行われ、人々は、さぞ忙しかったろうと思います。明日、日曜日は疲れを取って月曜日から新年の日常が戻ってきます。ウブドの風も、西から東へ、明らかに変わってきました。雨季が終わって乾季の始まりのようです。

03/21 人気の寺のオダラン

 バリ島にはバリ・ヒンズーの寺院が1万数千あるといわれます。ほとんどの村には、村のお寺、村の創設者のお寺、ご先祖を祭るお寺と、少なくとも三つあり、そのほか数村が共同で祭るお寺、水利組合のお寺など、その実数は、よく分かりません。加えて、それぞれの屋敷地に祭る祠があり、四国の三分の一ほどの土地に300万人余りが暮らす島で、毎日、どこかでお祭りがある、といわれる訳です。
 寺院の中で全島の人が崇め、お参りする最高位のお寺が九つ。総本山ブサキはじめウルワツ、ゴアワラなど、その次に位置するのがタナロット、タンパクシリンなど観光でも知られた寺院ですが、その中の一つ、サケナン寺のオダラン(寺の創立記念祭)に今日、お参りしてきました。
 サケナン寺は毎年(210日の暦で)クニンガンの日から3日間、オダランが行われ、大勢の人が詰め掛ける人気のお寺。サヌール海岸の南西、ダイビング・スポットで知られる、小さなスランガン島があり、この一角のお寺です。かつてはサヌール海岸からボートで渡っていたそうですが、大勢の参拝客のために5年前、当時のスハルト大統領が埋め立て道路と橋を建設したということです。さすが人気の寺だけあって入場制限のための鉄柵、甲子園のゲートにあるようなのが設置されているのには驚きでした。
 バリの人たちは、こうしたお寺へお参りするのが大好きです。もちろん信仰心第一ですが、みんなが晴れ着に正装して、参道に並ぶ屋台を冷やかしながらそぞろ歩きしたり、知り合いとおしゃべりし、内庭で演じられる仮面劇を見たり、夜になるとバロン・ランダを見物したり、若い人たちにとっては出会いの場にもなります。ビラ・ビンタンのスタッフも、ここが大好きで今日はカデさん、ニョマンさん、それにカフェ・ビンタンのスタッフ2人と計6人で出かけました。最終日とあって人出は少なかったのですが、家族連れ、奉納の日覆い傘を寄進する人など、参拝者は相次いでいました。
 私たちは帰り道、ギアニャールのいつもの店でタリワン(鶏の丸焼き)に満腹してきました。

03/28 闘鶏で一勝負

 この間、闘鶏をやってきました。といっても私が鶏を飼っている訳ではありませんので他人様のを譲り受けて一勝負したのです。
 先日、ボン村にある大きなお寺のオダランにボンさんと長女のあゆみちゃん、長男けんたくんと出かけた時のこと。お祈りを済ませプマンクから聖水を受け帰りかかった時、雨が降り始め、雨宿りのつもりで足を止めたのが闘鶏場。いつもは数百人の人だかりで隙間から、ちょこっとのぞき込むのが精一杯ですが、この時は祭りの最終日とあって5,60人が集まっているだけで、ゆっくり見物できる幸運に恵まれました。
 バリ島の男たちの最大の楽しみは闘鶏、と言ってもいいくらい。多くの家で雄鶏を1羽ずつ入れた籐の篭を四つや五つは見かけます。朝早く、野良仕事へ出かける前に、この篭を家の前に並べていきます。鶏が通りを眺めて楽しめるように、だそうです。午後、田畑から帰ってくると、愛する鶏を抱っこして近所の男たちと、鶏自慢のおしゃべりです。
 そうして育てた鶏の晴れの舞台がお祭りの闘鶏場という訳です。もともとは神様へのお供えの神聖な儀式だったものが、そのうち、しょっちゅう行われるようになり、あまりのギャンブル性に最近では禁止され、お祭りの時だけ開催を許可されています。といってもバリのこと、お祭りでもないのに、大勢が集まって闘鶏に興じている姿をちょくちょく見掛けますが・・・・・。
 ボン村の闘鶏場は30m×20mくらいの長方形の四本柱に屋根つきの建物。一段高い床から平場の床までスタジアム形式になっており、観客というか賭け金の張り手が取り囲む中で闘いが行われます。何羽かの鶏が飼い主に抱えられて先ずお見合い。手ごろな相手が見つかると左足に鋭いナイフを括り付けられ顔を突き合わせて闘魂をかき立てられます。この間に双方に賭ける男たちの数をそろえ釣り合ったところで勝負開始。互いに掛け違いながら蹴りあい、おおむね数秒で勝負がつきます。一撃で倒れる鶏、あるいは逃げ出す鶏、勝負がつかない場合は鳥篭に双方を入れてうずくまった方が負け。
 負けた鶏は、その場で解体され、1本の足はナイフを貸してくれた人へ、残りは勝者の今夜のご馳走。残酷なようですが、これも神様への供犠です。
 そうそう、私の勝負は、一人の男性が1羽の鶏を譲りたいと声を掛けて回っているのでボンさんが声を掛け、私が譲り受けた次第。3万5千ルピア(約4百円)でした。勝負は5秒ほどで、あっけなく負け。賭け金5万ルピアもふいでした。
 男たちが、これほどアツくなっている闘鶏、女性陣は、みんな素知らぬ顔で、寄り付きもしない風景も、おかしかったです。

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