01/10 ウブドは変わらず
皆さん、Villa Bintangの光森史孝です。昨日9日、ウブドへ帰りました。3ヵ月ぶりのバリ・ウブドは何にも変わっていません。(何にも変わらないところが実はいいのですが・・・) 地震・津波に関しては、情報不足で在住日本人やボンさんたちも私の話を聞いて改めて驚いていました。テレビはメトロテレビという、アチェの 人がスポンサーでやっているチャンネルが終日、アチェの様子を映していますが、他国の様子は少ないようで、全体の状況が把握しづらい様子 です。バリの人が直接、被害を受けたという情報はないのですが、アチェに、バリ駐屯の国軍の一部360人が駐在していて、うち70人が行方 不明という情報があります。ただ国軍はあちこちの出身者で構成されているのでバリの人が含まれているかどうか不明です。そうした中で、 子どもたちがお小遣いを削って学校へ届けたり、村の人たちも少しずつ寄金するなど被害者救援の動きは少しずつ広がっています。
地震・津波が起きた26日はヒンズーのサラスワティというお祭りの翌日で、バリでは多くの人が早朝から海で禊をしていたそうで、もし津波が来ていたら・・・・と多くの人が身震いしていました。
私が到着した9日はバリ・ヒンズーでシヴァラトリという祈りの日でした。 朝から翌日の夕方まで食べ物を口にせず、夜は眠らず神に祈りを捧げる儀式があります。深夜、各地のお寺にお参りした人たちは線香が煙る 暗闇の中で静かに、これまでの行いを反省しながら祈ります。ただ最近は、少し形式化し、周辺のスタッフたちに「おなかすいてる?」とたずねると、 「そんな、辛抱できないよ‥」と笑ってました。結構、食べてるようで、夜のお祈りもバイクに恋人と相乗りした若者たちが主流とか・・・このへんがバリ・ヒンズーのいいところでもあるんですよね。
9日は日曜だったのでブントゥユン村のジェゴグ公演を少しのぞきに行きました。日本に住んでいるアユさんが、飛び入りで踊るというので見に行っ たのです。このアユさんの話はまた改めて書きますが、ともあれ帰り着くと、もうどっぷりの村暮らしです。
01/13 オンバントゥ
「オンバントゥ!」-ゆうべ、ウブドの一角にあるカフェ「エグザイルス」で、百数十人の人々が、この言葉を繰り返し唱えました。 インドネシア語でオンバッ=ombak=波と、バントゥ=bantu=支援する、を組み 合わせて新しく作った言葉「波のように支援する」です。地震・津波で被害にあった人たちへ波のように多く、繰り返し支援しようというような 意味です。エグザイルスで開かれたのはアチェを支援するベネフィット・コンサートでした。主催したのはidepというNGO。http://www.idepfoundation.org 午後7時半の開演時には百人を越す人たちでぎっしり。6割が日本人でしたが、時間が経つにつれ欧米人が続々と詰め掛け、150人は越して いたでしょう。入り口の壷に寄金を入れて、てんでに屋内外に座り込んでビールやワインを飲みながら演奏を楽しみました。いくつかのグループが 出演したのですが、横浜から来たというゴスペルの「Y.A.A.Voices」(女性5人)が素晴らしい声を聴かせてくれました。
そして参加者を大喜びさせたのが「ジェゴグの王様」と呼ばれるスウェントラさんの飛び入り参加。クンダン(太鼓)をたたいて女性たちと共演し やんやの喝采。コンサート全体の司会もスウェントラさんの奥さんのかず子さんでした。私は初めてスウェントラさんと膝を交えてお酒を飲む 機会に恵まれ、いろんな話をしました。大阪万博の時からジェゴグ=巨大な竹の楽器の演奏=日本公演を始め今では毎年数回、日本で演奏 していること、3年ほど前、神戸のHATで土砂降りの中、復興記念の演奏会をしたこと、「日本が世界で一番好き」「バリの人より日本の人が ジェゴグをよく理解してくれている」など・・・
そして3月16日ごろ、Villa Bintangとビンタン・ビレッジを構成しているビンタン・パリの庭園で野外演奏会をするという計画も話してました。 そのあと日本へ行き、愛知万博で数ステージ、演奏して北海道から九州まで演奏旅行をするのだそうです。
カフェ「エグザイルス」についても書こうと思ったんですが、長くなりますので、昨年9月13日のウブド村暮らし通信「ウブドのカフェ・エグザイルス」を参照して下さい。
01/13 ジェゴグとケチャ
ウブドにはいろいろな呼び名があります。「芸能の村」というのも、その一つ。ウブド各地に散在する宮殿やお寺の中庭、村の集会所などで、 毎晩、どこかの村のグループがバリ音楽のガムラン演奏、ケチャ、レゴン、バロンなどのバリ舞踊、そして影絵芝居などを催しています。私もウブドへ来るたび2,3回は観賞に行き ますが、すべてを見るには1ヵ月近くかかりそうなぐらいです。今回はビラ・ビンタンに宿泊している女子大生たちの案内がてら新しく作られたグループの演奏会を二つ、のぞいてきました。その一つは私たちのいるブントゥユン村(約220世帯、900人)の人たちが始めたニュー・ジェゴグ。ジェゴグは巨大な竹で作った楽器を打ち鳴らし 重低音がお腹に響くバリ音楽のガムラン。もともとバリ島の西部、ヌガラという土地で演奏されていましたが、第2次大戦中、竹が武器になると禁止 されていました。戦後、復興させ世界にジェゴグを広めたのが、エンタティナーのスウェントラさん率いる楽団「スアール・アグン」です。毎年のように 世界各地を演奏旅行し去年も伊丹市などで公演があったようです。
ブントゥユン村のジェゴグ・グループはウブドに長年住んでいる鈴木靖峯さんが村人と協力して作り上げました。一昨年には村を訪れた神戸の和太鼓のグループと競演して喝采を浴びました。 この時の経験から上半身裸で太鼓を打ち鳴らす姿をイメージして巨大な竹(高さ3.5m、幅4m)の楽器を縦に並べ従来の楽器と合わせ演奏するスタイルを生み出したの が「ニュー」という訳です。もちろん曲も新しく作り、汗びっしょりになりながらの演奏に観客も大拍手でした。皆さんがウブドへ来られたら、ぜひ、 この演奏を聴いてやってください。グループの名前は「スアラ・サクティ」。 毎日曜日午後7時からブントゥユン村のお寺の中庭(ウブド王宮から北へ約2.5km)で公演があります。チケットはウブドの案内所などでも売っています。 ちなみに料金は5万Rp(ルピア)=日本円で約650円です。
01/18 日本語補習校
ウブドは、ようやく雨季らしく毎日、雨の天気になってきました。昨日は午後3時過ぎから、いつものように豪雨。道路が川になっていました。少し小降りになったのでウブドのまちなかへ用事に。郵便局、電器屋、スーパーを回って帰ってきたのですが、側溝から道路にあふれたゴミの中の釘を拾ったらしくタイヤがパンクという、おまけをもらってきました。きょうは鈴木千春さん(日本旅行バリ支店長・バリ日本人会会長)が見えました。先日、その日本人会が経営している「バリ日本語補習授業校」の創立15周年記念式に行ってきました。私は直接の関係はなかったのですが、先日、エグザイルスで会ったスウェントラさんが、サヌールにある、ここの校歌を作曲し、お披露目がある-と話していたので鈴木靖峯さんと出掛けることにしました。通称「補習校」と呼ばれる、この学校は、各地にある日本人学校と違って公立や私立に通っている子どもたちに、日本語の補習をしています。国籍は問わず、両親のどちらかが日本人の子どもたちを受け入れており、幼・小・中の約160人が、週に2-3回通ってきます。日本人会のボランティアで運営されており、敷地を無償で提供しているラマ・ツアーのイスカンダル・まきこさんたち、バリに住む日本人の草分けの人たちが創設の苦労を話していました。スラバヤ総領事館バリ駐在官事務所となっているのが来年にはバリ領事館に昇格しそう(野村領事の話)とかで、なんとかこの機に日本人学校へ格上げを-という声もあがっています。
校歌は作詞が前会長・校長でJTBバリ支店長の斎藤輝久&和子夫妻、作曲がスウェントラさんとギタリストの斎藤和弘さん。
「ブーゲンビリアの花が ささやくよ やさしいこころと 祈りのこころ 平和な地球を つくるため 日本とバリと世界をつなぐ 補習校 花のかおり 誇りたかき 島に満ちあふれ 清き流れ 深きめぐみ 大地をうるおし ああ バリの空よ 美しくあれ われら希望の 地球の子」というのが、その一節です。 ガムランも取り入れた、いい曲で、子どもたちが力いっぱい歌っていました。
01/21 バリ島東部の海岸へ
昨日、全島土砂降りの中、バリ島東部三分の一を時計の針と逆回りに一巡りしてきました。もともとは、珊瑚礁を見に潜るため1週間ほど東部 海岸に滞在するという、隣のビンタン・パリに長期滞在している日本人男性を、ボンさんが送って行くのに同行させてもらい、海岸とホテルを見に行く のが目的でした。Villa Bintangを午前9時半ごろ出発、西へギアニャール、スマラプラ(かつて王宮のあったクルンクン)を抜けて海辺の製塩で知られるクサンバへ。 途中、蝙蝠の洞窟があるゴア・ラワ寺院で交通安全のお祈りをし、チャンディダサから最高峰アグン山(3,142m)の南斜面を横切るようにアンラ プラを通りパダンクルタという村のワルンで昼食を摂ったのが正午過ぎ。その後、島では極東のビーチ、アメド到着。
たずね当てたホテルは高床式、茅葺きとんがり屋根のコテージが海岸に沿って17棟並ぶ、素朴なたたずまいでした。ダイビングやシュノーケリング を楽しみ後はホテルでぼんやりしているという人には打ってつけのロケーションです。欧米人には好まれそう-とボンさんの感想。ただ雨季とあって 薄暗く湿っぽい印象。スタッフの話では現在、客はフランス人が1人だけという。当の男性が「うーん、これなら3日間かな」と思案しているところへ豪 雨。たちまち周辺が水浸しになり歩くのも難儀する。遂に「今回は断念!」改めて気候の良いときに来ようということになり、日本人の奥さんにも会え ずに早々に撤退しました。
アメドから海岸沿いにシンガラジャ方面へ北上、トゥランベンでリゾート・ホテルに立ち寄り、お茶をしました。このホテル、日本人の経営で、全40 室、海を見晴らす素晴らしい景観と施設。かつて田中団長率いる神戸の和太鼓のグループがウブドのブントゥユン村のジェゴグ・グループとセッション をやった後、宿泊したホテルです。残念ながら客はゼロ、売りに出されている-とスタッフの話でした。遠いのが難点でしょうか。
アグン山を南に見ながら、ボンダレム村の少し手前で左折、一気に高地へ駆け上がりました。沿道には旬のドリアン売りの屋台が並んでいます。 車を止めて3人で1個(12,500ルピア=約160円)食べ、ランブータン(ライチのようなフルーツ)3束(計7,500ルピア=約90円)をお土産に 買いました。峠の最高地点は1,620m。風が冷たいくらい。東からアグン山、アバン山(2,153m)バトゥル山(1,730m)が三重連のように並び 雲がたなびく様子は絶景でした。
キンタマーニを通りウブドへ帰り着いたのが夕刻。チャペ・スカリ(お疲れ)ではありましたが、多様なバリの顔を見ることができた一日でした。
01/25 祭りに良いお日柄
バリ・ヒンズーの暦では、ここ数日、お祭りによいお日柄だったようで、テラスにいると、水田を渡る風に乗って、あちこちのお寺のガムランの音が 聞こえてきました。ビラ・ビンタンの北側のホテル「ワカデウマ」も敷地内の祠のオダラン(創立の日のお祭り)だったらしく銅鑼や太鼓のにぎやかな 音が聞こえていました。そして昨日、24日は満月の日のお祭り「プルナマ」で、島あげてのお祭りとなりました。正装をした島の人たちが、それぞれのお寺へお参りし、 子どもたちもこの日は正装して登校です。
私たちは、ビラ・ビンタンのマネージャー、ボンさんの故郷、ボン村へお参りに行きました。私は去年7月、京都の人形劇団ななし座の皆さんと 一緒に訪問して以来です。この時の様子は【ウブド村暮らし通信】(04.07.13)に書いています。鈴木靖峯さんがボンさんの自宅の一角に図書 コーナーを寄贈し、近所の子どもたちが本を読んだり絵を描きに集まっているという話を聞き、それを見るのも兼ねてのボン村行きでした。 ボン村の一段高いところにプラ・デサ(村のお寺)とプラ・プセ(先祖のお寺)があり、二つにはさまれた真ん中に近隣10カ村でお祭りするプラ・ ンタッサイがあります。この日は近くの谷川から聖水を汲み、これをみんなに分けて田畑や屋敷地に備えて豊作や安全を祈るという儀式が行われ ました。10の村から数百人の人たちが集い、聖水を迎え、さあ、そろってお祈りとばかり庭に並んで座ったところへ、あいにくの雨。あわててお堂の 軒下に避難しましたが、豪雨は1時間ばかりやまず、ようやく小降りになって再度、と思って改めて座り込んだところが、また雨。結局、みんな雨中の お祈りとなりました。それでも、きちんとお坊さんから聖水をかけてもらうまで座っていたのですが、今日は少し風邪気味の人が多かったようです。 皮肉なことに、全てが終わったころ、青空が見えてきました。
ちなみに、このお寺の敷地内には11世紀ごろの石造遺物が埋蔵されており、その一部が掘り出されて敷地内の建物に保存されています。残りを 掘り出そうとしたところ、地震が起こったので、ここにはパワーがある、と地域の人たちは恐れ現在も埋蔵されたままになっています。バリらしい話 です。11世紀ごろの石造遺物は有名なゴア・ガジャやグヌン・カウイでも見られ、いずれも当時の王国の遺物とされています。今では都会地から 離れた農業地帯のボン村ですが、当時の繁栄をうかがわせるものです。