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2005年4月「ウブド村暮らし通信」

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04/04 午前2時のチャロナラン

 昨夜、ウブドのプラ・ダラム・プリ(王家の火葬儀式の場所)で行われたオダランの奉納芸能、チャロナランを見に行き、今朝午前3時ごろに帰ってきたので、まだ眠いです。
 チャロナランは災厄を祓うため神様に捧げる芸能で、バリ島の多くの村で、大きなオダランの際に催されます。聖獣バロンと魔女ランダが登場、最後にクリスをかざした兵士たちがトランス状態で暴れ回ることで知られる舞踊劇。あらすじは、魔女とわかり森へ追放された元王妃チャロナラン(ランダ)が娘の結婚話が進まないのに腹を立て、元の王国へ災厄をもたらそうとし、王(バロン)や従者たちが立ち向かうというもので、ジャワとバリの伝説が混じり合わされて出来上がったようですが、時代や村によって違いがあり、多くのバリエーションが生まれています。
 チャロナランは、おおむね夜中に行われるのですが、下見に夕方、寺へ行ってみると、外庭の一角にパイプで5m×30mほどの囲いが作られ天井には椰子の葉の飾り、床にはシートを敷いて既にガムランが演奏されていました。大勢の人がお祈りの最中でしたが、チャロナラン会場は、数十人の人垣だけ。
 夕食を済ませ午後10時ごろ、ここへ行くと、既に舞台を取り囲んで千人近い群集。小さな子どもたちも大人に混じって地べたに座り込んでいます。やがてバロンが登場して一舞い。チャロナランや侍女たち、王の従者たちの舞い、コメディ風の従者たちの掛け合いがなどが次々に繰り広げられる間、観客は物売りから水やお菓子を買ったり、おしゃべりしたり、てんでに楽しんでいます。が、いよいよクライマックス、ランダの登場となり、照明が落ち、薄暗い中でおどろおどろしい音楽に合わせて、「ウォーッ」とうなり声が聞こえ始めると、会場は静まり、中には震えている子どもたちもいます。時計を見ると、午前2時。この後、一瞬、真っ暗闇になり照明が点されると、死者になった男性を十数人の上半身裸の男たちが「キエーッ、オーッ」と奇声を上げながらたんかに担ぎ、ガムランを従えて街中へ飛び出して練り、再び寺の墓場へ帰って生き帰りの儀式を行って終了となりました。
 前に見たクデワタン村のチャロナランでは、男たちが口中に油を含み火をふいたり、ブントゥユン村ではクリスを自身に突き刺すパフォーマンスもあったのですが、ここではなし。最近は、トランス状態を見る機会は滅多にないそうです。そのうち、どこかでトランスを実見したいと思っているのですが。
 バトゥブラン村などでやっている観光用のバロン劇とは、一味違う奉納芸能の一夜でした。

04/06 バリの稲刈り

 バリ島のあちこちで今、稲刈りの真っ最中です。ウブドのビラ・ビンタンの前の田んぼも既に刈り取りが終わりました。とはいっても、稲刈りの横の田では田植えが始まっているという、いつものバリ島の風景ではありますが・・・・
 ウブドの稲刈り風景は昔ながらで、地元の村の人たち男女7,8人がグループとなり男性が刈り取った稲束を女性3人ぐらいが桶の中へ穂をたたきつけて籾を落とし、その後、ざるでふるってごみを飛ばし袋詰めして頭に載せ持ち帰ります。1日に3,4枚の田をこなしてます。昔は品種が違ったので穂刈りだったそうです。
 バリ島中部のタバナンや西部のヌガラなど穀倉地帯では、ジャワからやってきた臨時請負の人たちが立ち働いています。田んぼの隅にテントを張って泊まり込み、十数人が組んで次々と田を渡って稲刈り作業を進めています。このあたりでは、農作業に機械を取り入れている農家も少なくありません。「バリの人たちは、だんだん農業をしなくなって、怠け者になっている。今にウブドでも・・・」というのが近くの村の古老たちの嘆きです。
 バリ島といえば、テガラランなど美しい棚田が有名ですが、バリ特有の地形と合理的な水利、そして旺盛な勤労意欲がもたらしたものだと思えます。島の背骨のように中央を東西に横切る火山帯、そこからもたらされた肥沃な土壌が勾配をつけながら海まで広がり、等高線状に棚田を作り出しています。そして1枚1枚が小さな田を、せいぜい牛か人力で耕した長い歴史を持つ棚田。収量はインドネシア一を誇っています。多収穫品種の開発で30-40年ほど前から始まったという二期作(所によって三期作)で、今もバリは農業の島には違いないのですが、一方で観光産業との絡みで、土地や働き手に変化が生まれてきているのも事実です。これから、どう調和させていくのか、バリの人たちのしたたかさが発揮されるのを期待しています。

04/18 たっぷり芸能ウブドの旅

 先週、「たっぷり芸能ウブドの旅」を企画し月曜日から土曜日まで、客人14人に、濃密なバリ6日間を味わってもらいました。参加者は私のかつての仕事を通じて知り合った古い友人11人と、その奥さん3人。青森から鹿児島まで、日本の各地から、成田発と関空発の組に分かれ現地合流の旅。
 のっけから少しアクシデントがありました。関空発のJAL713便が機体不良で那覇に緊急着陸。整備が出来ず一行は別の飛行機で羽田へ逆戻り。結局、翌日の成田発通常便に乗り換えて丸1日遅れての到着となりました。このグループが2年前にバリへ来た時は、成田発のJAL便がキャンセルになり、キャセイ航空に乗り換えて香港1泊、丸1日遅れの到着という事があり、みんな〝大人〟ですから、これで関西、関東おあいこなど、冗談を言ってましたが、内心、いらいら、やきもきしたことだろうと思います。
 先に着いた成田組は空港近くのホテルに1泊。翌日はデンパサール市内のププタン広場、国立博物館、最近できたバリ島の人たちの戦いの記念塔などを見学(これらは別項で後日書きます)深夜に、ウブドのビラ・ビンタンで、ようやく一行の顔合わせとなりました。そして翌日から遅れを取り戻すこともあって、濃縮されたウブド・ライフとなりました。
 1日目は車で約一時間ほどの海岸べりにあるヒンズー寺院のオダラン(創立記念祭)へ、村の人たちと同じ正装をしてお参り。午後の暑い日盛りはテラスで一服。日が落ちて涼しくなった午後7時半からケチャダンスの観賞。近くにあるウブドで一番人気のベベ(アヒル)の丸揚げレストランで夕食。ビラへ帰ってもミーティングルームで遅くまで歓談が続きました。
 2日目はキンタマーニ高原で火山と火口湖の見学。夜は王宮でレゴンダンスを見て、いきつけの「カフェ・タマン」で夕食。
 3日目はウブドのネカ美術館見学、モンキーフォレストでお猿さんと遊び、ウブド散策。夜はビラ・ビンタンのカデさんや一行のドライバーを勤めたスウェチさん、ストウさんたちが出演するブントゥユン村のジェゴグを観賞。その後、ビラ・ビンタンで手作りバリ料理を食べながら、特別出演のジョゲットブンブンで踊り子さんに手招きされ順に踊りに参加。深夜まで日本・インドネシア交流歌合戦が続きました。
 最終日はテラスでゆっくり。夕方、クタのハード・ロック・ホテルでTシャツの買い物をしてジンバランへ。きれいな夕日と焼き魚の夕べで名残を惜しんだ後、空港へ。
 一行は78歳を筆頭に全員が60歳以上でしたが、よく食べ、よく飲み、元気いっぱい楽しんで帰られました。

04/24 バリ・ヒンズーの総本山

 今夜のウブドは真ん丸のお月さんが、こうこうと照り付けています。満月のバリ・ヒンズーの宗教行事は昨夜でしたが、今日も、あちこちでオダランが行われています。近くではウブドの中心にあるウブド・カジャ村のお祭りで朝からガムランの響きが風に乗って聞こえてきました。夕方には近在のブントゥユン村など各村からガムランを先頭にした行列がバロンを、このお寺に奉納し、夜にはお参りを済ませた人たちが正装姿でバイクに3人乗り、4人乗り、中には5人乗りで帰っていくのがカフェ・ビンタンから見られました。
 先日、バリ・ヒンズーの総本山、ブサキ寺院へお参りに行ってきました。この寺院は日本でいえば、高野山といった感じでしょうか。バリ島の最高峰アグン山(3,142m)の中腹1,000mくらいにあり、奥の院にあたる中心寺院プナタラン・アグン寺院を中心に30近くの寺院が取り囲んでいます。それぞれ職業集団、出身地、カーストなどのグループで祭っているお寺です。霧にかすむアグン山を背にしたメル群(塔=最多は11層あり、奇数の屋根が日本の五重塔のようにそびえています)の幽玄な眺め、逆に南を向くと、メルの向こうに広がるインド洋の壮大な眺め。島中の人たちが参拝し心を清められる心情が分かるような気がします。
 ところが最近、観光客相手のガイドの中に強要やチップを多額に請求するのがいて、評判を落とし、少し私たちも敬遠気味でした。今回はお祭りを控えて、にぎわっている最中でもあり、宿泊中のお客さんの希望もあって、スタッフら計7人で、ギアニャール、バングリ経由、車で1時間半ばかりかけて出かけました。お供えを用意し正装で行ったので、観光客は入れない境内でプマンク(寺僧)に特別に「日本人がきている・・・」と神様に報告、お祈りを捧げてもらいました。このお祈りが効いたのか、JALも無事、成田へ運んでくれました-と、日本へ帰った人から報告がありました。
 帰途、大きなドリアンを道端で売っていたので二つ25,000(300円弱)ルピアで買い、早速、かぶりついたのですが、たくさんの実で、お腹がいっぱいになった道中でした。

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